霊感、直感、虫のしらせなど、「第六感(シックス・センス)」がなくても、ただならぬ「何か」を感じてしまう…アルム詔子の「5.5センス、信じますか?」(前回はこちら)
今回は、おみくじにまつわる不思議な話について。
もちろん、体験したのはワタクシ、アルム詔子である。
大好きな祖母の依頼で、和歌山県にある真言密教の聖地、高野山へと向かったのだが、そこで信じられない出来事に遭遇した。
それは、ただの偶然か。はたまた、言葉では説明できない何かしらの意図があるのか。
高野山でのおみくじ体験。一体、何が…?
寺社の数だけ「おみくじ」がある?
かつては、おみくじが好きだった。
若い頃は半ば運試しのように、行く先々の寺社でよくおみくじを引いたものである。
一口に「おみくじ」といっても、その種類は千差万別。和歌を用いている場合もあれば、4コマ漫画のように1つのストーリーとなっているものも。よくぞまあ、これほど色々なタイプのおみくじがあるものだと、感心してしまうほどである。
なかでも、人びとの関心事といえば、「大吉」や「凶」など、今後の行く末についてだろう。この点においても、やはり、それぞれの寺社によって、その趣は異なる。
例えば、私が学生時代に巫女のアルバイトをしていた伏見稲荷大社には、「大吉」を超えて「大大吉」というおみくじがあった。
日本三大稲荷の1つということもあり、とかく初詣の参拝客は群を抜く。もちろん、授与するおみくじの数も半端ないから、ついには「大大吉」の番号まで覚えてしまったくらいである。
一方で、おみくじには「凶」という真逆の結果も存在する。仮に初詣の参拝で「凶」を引いたとなれば、メンタルへの大打撃は必至。実際におみくじの内容が悪くなくとも、いかんせん1年の始まりが「凶」である。その言葉だけが先走って、なんだか不安が込み上げてくるから、どうしようもない。
だから、かつての私は、おみくじをどこか「占いのようなモノ」として捉えていた。仮に「凶」ならば引き直せばいい。そんなふうに、安直に物事を考えていたのである。
しかし、和歌山県にある「高野山」にて、不思議な体験をしてからというもの、その考えが変わった。
言葉では説明できない、何かしらの「力」が働いているかもしれないと、思うようになったのである。